アナログレコードの1分間45回転で、中央の円孔が大きいシングルレコード盤をドーナツ盤と呼んでいた。
昭和の歌謡界では、およそ3か月に1枚の頻度で、人気歌手たちは新曲をリリースしていて、新譜の発売日には、学校帰りなどに必ず近所のレコード店に立ち寄っていた。
お目当ての歌手の名前が記されたインデックスから、一枚ずつレコードをめくっていくのが好きだった。ジャケットを見るのも楽しかった。
1980年代に入り、コンパクトディスク(CD)の開発・普及により、アナログレコードは衰退するが、それでもオリジナル曲への愛着もあり、アナログレコードの愛好者は存在し続けた。
近年、レコード復活の兆しがあり、2021年にはアナログレコード専門店が新規に出店されるなど、レコード人気が再燃している気配がある。
ふと口ずさむ歌は、レコードで聴いていた昔のメロディだ。
ジャケット写真を思い出しながら、「コモレバ・コンピレーション・アルバム」の趣で、懐かしい曲の数々を毎週木曜に1曲ずつご紹介する。
ミスター・ラグビーと呼ばれた平尾誠二が天国というフィールドに旅立って、丸6年になる。暑い夏が終わり、ラグビーシーズンが始まると、私の中では麗美が歌った「ノーサイド」とともに、平尾誠二が日本代表の監督として率いた1999年のワールドカップが蘇ってくるのである。
麗美の「ノーサイド」は松任谷由実が提供した楽曲で、1984年1月21日にファーストアルバム『REIMY』の中にリリースされ、シングルカットはされていない。のちに松任谷由実がアルバム『NO SIDE』に 一部歌詞を書き換えてリリースした。麗美は、松任谷正隆・由実の全面バックアップで84年1月1日「愛にDESPERATE」でデビュー。「青春のリグレット」「残暑」などのシングルと3枚のアルバムを制作したが、「自分の音楽性に目覚め、ソングライターになって離れていった」と正隆は著書『僕の音楽キャリア全部話します』の中で語っている。
19歳で歌った麗美の「ノーサイド」は少女の面影を残す声色と相まって、当時人気の大学ラグビーを彷彿させた。特に「早明戦」はお正月の国立競技場を満員にするほどだった。平尾誠二も同志社大学でプレーをしていた頃で、史上初の同志社大学の大学選手権3連覇に貢献、史上最年少(19歳4カ月)で日本代表に選出されるなど、既にスーパースターだった。
「ノーサイド」を初めて聴いてから10年以上経った頃だろうか。元日本代表だった方から、社会人ラグビーのチケットをいただいた。テレビで観たことはあったが生観戦は初めてだった。高く蹴り上げられた楕円形のボールの行方を固唾をのんで見守る緊張感、芝生の上で格闘技をしているかのような迫力。大男たちがスクラムを組むと、掛け声や「バーン」というぶつかり合う音が聞こえてくる。脱兎のごとく駆け抜け「トライ」を取ると歓声が沸き起こる。選手たちはレフリーの「ノーサイド」の笛とともにゲームを終えると、整列し戦った相手と握手を交わし去っていく。何もかもが新鮮で、すっかりラグビーの面白さに惹き込まれ、それからはチケットを買って足を運ぶようになった。