数年前、関東の最東端にある千葉県銚子岬の白亜の犬吠埼灯台を訪れたことがあった。狭く急な螺旋階段を息を弾ませて登り展望台に出ると、見渡す限り太平洋が広がった。遠く霞がかった船は外国船かタンカーか、届くはずもないが、思わず「おーい!」と大声を上げ手を振ってしまった。同時に、「喜びも悲しみも幾歳月」の威勢のいい伴奏が聞こえてきたのだった。おぼろげな記憶にある映画は暗く悲しみの連続だったが、主題歌は行進曲か軍歌のようにも聞こえるテンポだ。そして突然、オーイらミサキの、と口を衝いて出た。そのまま辺り憚らず大声となって、4番まで歌った。展望台は老人のステージと化した。隣の若いカップルがニコニコしていたのが救いではあった。
思えば、若山彰という歌手の真面目で真摯な歌い方が好きだった。軽快なテンポにも崩れずまっすぐに歌う姿勢は東海林太郎や藤山一郎を彷彿とさせた。旧広島文理科大学に在学中、音楽コンクールに出場し入賞したことがきっかけで歌の道を志し、武蔵野音楽大学へ入学し直している。本格的に声楽を学んでいるのだ。そしてオペラ歌手を目指したが、在学中にアルバイトで伊藤久男の「イヨマンテの夜」のバックコーラスをしたことで流行歌に舵を切り、作曲家の米山正夫に師事する。2020年のNHKの朝のテレビ小説「エール」でも記憶に新しいが、昭和の流行歌手にはしっかりと声楽を修めた人が多く活躍しているのもうなずける。若山は、大学卒業後の1951年、24歳で日本コロムビアから「星空」でデビューしたが、ヒット曲に恵まれず下積み生活が続いたという。木下惠介監督の作品と常にタッグをくむように音楽を担当した実弟の作曲家、木下忠司の抜擢がなければ若山彰は脚光を浴びることはなかったという人生のめぐり合わせを思う。
やや高音のキーと声量溢れる若山の「喜びも悲しみも幾歳月」という楽曲は彼なくしてはあり得ず、大ヒットした。この年の第8回紅白歌合戦に出場し、声高らかに歌う若山の姿をはっきりと記憶している。後世になっても過去の著名なヒット曲としてしばしば紹介されるのは、昭和の時代を生き抜いてきた日本人への応援歌として多くのファンは受け止めて来たからではないだろうか。ちなみに、「エール」の主人公に擬せられた作曲家の古関裕而は、プロ野球球団歌、巨人軍の「闘魂こめて」、「阪神タイガースの歌(通称:六甲おろし)」を作曲し若山の持ち歌になっている。いずれも多くの歌手が歌ったが、特に「六甲おろし」は若山の歌唱のものが甲子園球場で流されたのがきっかけで定着したといわれる。彼の歌唱力は威勢のいい応援歌が似合ったのかもしれない。
文:村澤 次郎(ライター)