秋山庄太郎は13歳のとき、親友と趣味で写真を始めた。ひそかに思いを寄せる女子学生を撮影したり、卒業アルバム委員をつとめたりした。大学では、教科書は持って行かなくても、カメラをぶら下げていない日はなかった。
学生結婚した秋山庄太郎は、新妻・伊都子のポートレートを巻頭に、20点ほどの手焼きプリントと手書きの文で構成した、『作品集(1)』と題したアルバムをのこしている。『女』と題した作品には、「私のポートレートへの出発は、この作品に始まる。女の顔のヴァラエティーに興味を感じだしたのもこれ。私のポートレートへの興味がこれに始まったことを回想すると最も記念すべき作品」と添え書きしている。
このアルバムは、秋山庄太郎没年(2003年)、長女・紀子が、遺品整理中に見つけた。生前秋山庄太郎自身が披瀝をしなかったが、独特の陰影が見て取れる。初期作品のことを、秋山庄太郎はこんなふうに回想している。
「最初にポートレートを撮った頃は、省略の仕方やライティングなど、オランダの画家レンブラントの影響がいちばん強かった。僕の女性写真に関していえば、西洋絵画の影響を受けている」
その後、女性や子供のポートレート、動物、風景、セルフポートレートなど38点を収めた作品集『翳』を自費出版。出征で死を覚悟し、生きた証にするつもりだった。戦時下の物資事欠くなか、親友らの手助けで150部印刷・製本した。「抒情的雰囲気の描写が僕の芸術だということは以前も今も変わっていない」と序に記している。
間もなく召集令状が届き、雑嚢に『翳』を入れて中国大陸に通信兵として渡る。復員後、縁あって映画雑誌社写真部に就職。「原節子が撮れたら」との思いもあった。入社2か月目、仕事場の大船撮影所から帰りの電車で、その日撮影所で会った原節子と偶然一緒になり、会話が弾んだ。二人は同年同月の生まれ。ウマが合い、原節子から自宅での撮影に誘われた。当時、原節子の自宅での撮影は例がなかった。しかも新人カメラマンが……。
翌日、撮影に出向いた秋山庄太郎は、大スターを前に緊張し、カメラを持つ手や膝頭が震えた。それをねぎらうように原節子は手作り料理やビールでもてなした。
ほどなく秋山庄太郎は、原節子は撮られるのが上手でないことがわかってきた。ポーズがとれない、すぐ動く、シャイなのである。どうすればうまく撮れるか。技術的な問題だけではない。秋山庄太郎は「会話をする」ことを心がけた。
「レンズ見つめて、ニッコリ笑って、私ってきれいでしょ。そういうふうに撮られた写真ほど、自己嫌悪するものはない。秋山さんはしゃべりながら自然に撮ってくれるからいいわね」と原節子は語っている。
秋山庄太郎が撮る原節子のポートレートには、安心した表情がある。「原さんは撮影しづらかったけれど、その分、被写体の本当の美しさを探し出すということを教えられましたね」