◇「輪湖」の下に群雄割拠
「柏鵬時代」の人気を博しながら登場してきたのが、貴ノ花です。大鵬は昭和46年5月場所に貴ノ花に負けて引退しました。また世代交代がやってきたのです。第51代横綱の玉の海、52代の北の富士が受け継いで一つの時代を作るはずでした。しかし玉の海は、昭和46年9月場所後の大鵬の引退相撲の太刀持ちを務めた2日後入院し、10月11日帰らぬ人となってしまうのです。残念でした。北の富士が一人横綱として頑張り、猛牛と言われた琴櫻が横綱として後を追いました。
日本大学出身の輪島は、昭和43年、44年と連続学生横綱の偉業をひっさげ花籠部屋に入門、頭はパンチパーマで、いきなり走り始めて周囲を驚かせました。阿佐ヶ谷で稽古に励み、人気の面でも「貴輪時代」と言われ、ファンの注目の的でした。忘れられない両者の対戦は、昭和47年9月場所の千秋楽、水入りの大熱戦です。結果は輪島が勝ち、翌場所両者は大関に昇進します。貴ノ花は50場所大関をつとめたが大関どまり。輪島は昭和48年横綱に昇進しました。
北の湖は、昭和42年、中学一年生の冬、三保ケ関部屋に入門しましたが、師匠が「将来の横綱」と太鼓判を押した少年でした。中学に通いながら土俵を務め、昭和49年には大関3場所を経て21歳2カ月の史上最年少横綱となりました。輪島、北の湖の「輪湖時代」に合わせて、人気の大関貴ノ花時代が昭和40年代の後半から、50年代半ばで続きます。輪島は下半身もどっしりし、右からの攻めがあり、「黄金の左下手投げ」に北の湖は何度も苦渋を飲まされました。北の湖は、どちらかというとじっとしていられない性分で、自ら出て行って輪島に逆転の投げを食らったのですが、晩年はじっと我慢するようになって対戦成績も輪島の23勝21敗と拮抗し、大熱戦が何番もあります。
負けた相手に手を差し伸べるしぐさも見せず引き揚げる北の湖は、憎らしいほど強い横綱と言われることもありました。まだ20歳そこそこの若者が、自分という悪童がいてそいつを倒すために挑戦してくるから相撲人気が出る、と意識していたのです。こうも言いました。
「差し伸べられた相手の気持ちを考えろ。敗れた相手の気持ちを考えろ。敗れた力士がどんな惨めな気持ちになっているか。道場で手を差し伸べることはすべきでない。惨めさをばねにし、強くなって向かってこい」と言いたい気持ちを秘めた土俵態度だったと、私は何度も聞かされました。胸の奥に秘めた優しさがあった力士だったのです。「抑制の美」とは勝ち名乗りを受けながらも、倒した相手を慮る「惻隠の情」が秘められているのです。