編集長、ファッション
デザイナー、人形作家、プロデューサー……
70年代初めに当時の平凡出版から堀内誠一のレイアウトで「アンアン」が創刊されたことは非常に画期的なことだったのですが、後発の「ノンノ」と一緒にして、当時いろいろなところへ旅行したり、ちょっとした雑貨を買い集めたり新しい風俗を作った若い消費者的女性たちを、アンノン族とジャーナリズムは名づけたものです。雑誌は少女雑誌から総合雑誌にいたるまで、ある一面、読者の生活や信条やあこがれや趣味と密接に結びついているものですから、実はアンノン族という呼び名は、ふさわしくなかったのです。「アンアン」と「ノンノ」と読者は重なっているようで、あきらかに別のグループでした。
とはいえ、この二冊の女性雑誌に共通する最大の、そして、それまでとは違う特徴は(女性週刊誌は別)、ファッションが、家庭での女性の手作りや町の洋裁屋で作る注文服ではなしに、アメリカ的大量生産の質の良いカジュアルな既製服が中心となることが決定的になったことでした。日本が高度成長期に入り、背伸びすれば手に入りそうな夢見る少女のあこがれの豊かさと美しさを独特な文化的雰囲気で伝えつづけた中原淳一的なものは、そのしばらく前からすでに古風すぎるお嬢様趣味として流行遅れになっていました。
とはいえ、中原淳一の圧倒的な影響がなければ存在しなかった「ひまわり」的なものを、単に〈少女趣味〉の世界としてくくってしまうわけにはいかないのです。
淳一は戦前から自分の仕事を〈紙〉の中のものだけにとどめず、創作人形という布で出来た〈立体〉の分野にも広げましたし、戦後は、「ひまわり」「それいゆ」「ジュニアそれいゆ」の表紙からさし絵、細かいカットにいたるまでの大変な数のさし絵を描くばかりではなく雑誌の編集長としての仕事、さらに戦前の紙という平面を抜け出して成立した立体としての人形が、生きた少女や女性に生まれかわったようにさえ見える、当時の女優や歌手をモデルとして起用したファッション・デザインを手がけ、50年代までの日本の若い映画女優(スター)の誰もがモデルとなって、淳一の華やかで清楚なドレスやアップリケのある新感覚のキモノを着た姿を雑誌にとどめているのは、改めて当時の雑誌やスタイルブックを見るとその顔ぶれの錚々(そうそう)たることに驚かされます
淳一が伝説的な美少女スター浅丘ルリ子を誕生させたことはあまりにも有名ですが、しかし、すべての服は、ほっそりとした眼の大きな美少女たちがカメラの前で静止(ポーズ)して淳一のさし絵の一枚として見事におさまるためのもののように見えます。淳一の「スタイルブック」は型紙と縫い方が専門家の手で紹介されている本格的な洋裁のスタイルブックであるにもかかわらず、彼のさし絵の様式で描かれた彩色されたペン画のスタイル画は、どこかドラマチックすぎるというか、女装した若い美少年というか、宝塚のスターが男役のメークのまま女性のドレスを着ているといったふうの、ちょっとした不思議さがあります。当時のヨーロッパやハリウッド女優のメークやファッションに影響されながら(昭和二十五年八月号の「ひまわり」には「バザー」や「セヴンティーン」の置かれた本棚をバックに仕事場の淳一の写真が載っています)、淳一的少女の顔は時代と共に変化するのです。
前述の写真の紹介されているページには、彼がプロデューサー兼舞台美術監督として、マルセル・パニョールの戯曲『ファニー』をミュージカルとして、服部正の作曲、シャンソン歌手の高英男のマリウスで上演しようとしていることが記事になっていますが、なぜかファニーを誰が演じるのか一言も触れられていません。この若い人気シャンソン歌手(スタイル画の顔にも似ているし、淳一が戦後作った若い男の人形はマリウスに扮した高英男だったのかもしれません。そして、当時「少女ブック」という雑誌に連載されていた『すみれさん』という女学生マンガでは、コーチャンと言えば当然、越路吹雪、高英男、鶴田浩二の三人のうちの誰か、のことで女学生がもめる、というギャグがありました)は、一緒にパリで生活し、ずっと後になって、ポピーちゃんと呼んでいた中原淳一の死をみとることになるのです。ところで、パニョールの『ファニー』がブロードウェーでジョシュア・ローガンの演出でミュージカル化されるのは1956年(昭和三十一年)で、その後61~62年ハリウッドで、レスリー・キャロンとホルスト・ブッフホルツの主演で映画化されるのですから、淳一の音楽的センスというか舞台に関するセンスは相当に高度に洗練されたものだったのではないでしょうか。もちろん、若い高英男の才能に刺激されつつ、淳一の新生面が〈少女〉という枠を超えて花開いたのです。まだ、丸山明宏(美輪明宏)はデビューしていませんが、三島由紀夫は『仮面の告白』(昭和二十四年)を発表し、二十六年には『禁色』を発表します。