~監督と女優の二人三脚の映画人生~
SPECIAL FEUTURE 2019年1月1日号より
シナリオライターであり映画監督の新藤兼人。宝塚を経て大映から映画女優としてデビューした乙羽信子。二人の出会いは昭和26年の新藤兼人初監督映画『愛妻物語』。昭和27年の新藤監督作品『原爆の子』には、乙羽は大映の反対を押し切って出演し、それを機に、新藤が創設した独立プロ「近代映画協会」の同人となった。 乙羽はスターの座を捨て、演技者の道を選んだのだ。ここから、監督と女優の42年にわたる二人三脚の映画人生が始まった。 二人はやがて強く惹かれあうようになる。 新藤は「乙羽とは性で結ばれた。その性から愛が芽生えたから苦しむことになった」と著書『ながい二人の道 乙羽信子とともに』で告白している。新藤には妻がいたのだ。 二人が晴れて夫婦になったのは、新藤が離婚してから6年後、前妻の死の2年後だった。乙羽は新藤を「センセ」と呼び、新藤は「乙羽さん」と呼ぶ。 何であろうと新藤のやることに賛成した乙羽を、新藤は唯一の味方だと言った。 それは、男女の関係というより同志としての深い絆だ。 ここに、共に映画人生を全うした男と女の関係が紐解かれる。
企画協力&写真提供=近代映画協会
参考図書=『ながい二人の道 乙羽信子とともに』(新藤兼人著)
文=山本保博
新藤兼人さんと乙羽信子さん、二人の墓は京都妙心寺の塔頭・衡梅院にある。墓石には新藤さんが書いた優しい文字で「天」とある。二人という文字を重ねると天となる。
2002年盛夏、当時は乙羽さんだけが眠る墓を新藤さんと訪ねた。京都の夏は、新藤流に表現すれば「焼けたフライパンの底」のようだった。90 歳 の新藤さんは暑いと一言もこぼすことなく、僕が演出するドキュメンタリー の撮影に懸命に応えてくれた。
スタッフが墓前に供える花を用意していた。菊などの仏花だった。ところが新藤さんは深紅の薔薇の花ただ一輪を望んだ。自分の不明を恥じた。撮影は新藤さんに甘えて仏花ですませた。撮影を中断して薔薇の花を探してくれば良かったと後悔している。
映画監督と女優。仕事で結ばれた同志、愛で結ばれた男と女。二人にとって仕事と愛は車の両輪だった。そのひとに捧げる花は一輪の薔薇でなければならなかった。
同じ方向を向き走った二頭立ての馬車は、スタート地点から遙か遠い映画の地平へと駆け上がり、そして天に至った。