
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
縁に恵まれず葬ってしまっている企画は数知れない。長いものだと40数年前に企画した映画を、未だに可能性を追い続けているものもある。
一方で、ひょんな縁から、自分の元を離れて成立する企画もある。
『国会へ行こう!』(1993)もその一つだ。これを今、連載で書こうと思ったのは、政治、社会をベースにしたメジャー日本映画が極めて少ないからと感じたからだ。当時の政治状況に、今が近いと思ったからかもしれない。このタイトルは『病院へ行こう1&2』の直後だったからである。
『僕らはみんな生きている』(1993/滝田洋二郎監督)も企画の出発点は、当時、日本が世界で1位になったODA拠出額の使われ方に関しての疑問からスタートし、コメディ映画として制作した。
『国会へ行こう!』は大好きな岡本喜八監督に向けてぼくが書いたシノプシスがスタートだ。監督は 『大誘拐RAINBOW KIDS』(1991)を撮られた後だった。実は、『遠い海から来たCOO』(1993)を岡本監督と1年余りかけて脚本を創り、実写化を試みていた。当時のルーカススタジオと連携したSFXなどの打ち合わせもやりながら進んでいたが、原作のある問題が発生し、突如、終了してしまった。結局、アニメ映画『Coo 遠い海から来たクー』として成立するのだが、監督およびぼくは降板し、「脚本・岡本喜八」だけが記された。
『国会へ行こう!』は学生時代に選挙スタッフをする機会があり、そこで現金が飛び交った年で、逮捕者も続出した。岡本喜八監督には「社会派コミカル映画」として、その時の体験を元に、「自民党が2つに分裂する」企画を提案してみた。
企画には興味を持ってもらい、脚本をどうするか? となり、当時、監督の書生をやっていた高野和明さんを紹介された。後に大作家になられる高野さんだが、ぼくが拘ったコメディ映画の理想にはなかなか近づけなかった。何か月の後、監督からもこれは厳しいね、ということで一旦、リセットにせざるを得なくなった。
もう一つの理由は真田広之さんだった。立て続けに彼の映画を製作していた時で『病院へ行こう1&2』(1990&1992)、『新宿鮫』(1993)、『僕らはみんな生きている』(1993)等の流れの中で、彼が昔から敬意を抱いていたのが岡本喜八監督だった。
監督が難しいとのことで、企画をリセットするつもりだったが、『波の数だけ抱きしめて』(1991)などを一緒にやってくれた親しいプロデューサーから「もったいない」から自分がやってみたいとの申し入れがあった。真田さんには一旦、岡本監督映画は無くなったとしてぼくも離れる旨を伝えた。
秘書と政治家、真田さんは秘書役、政治家は緒形拳さんがイメージだった。
高野和明さんはその後小説家になり、『ジェノサイド』(2011)は100万部を超える大ベストセラーになった。やはり、コメディ向きではなかった……と思ったりもした。『ジェノサイド』の映画化の話も少ししたことを記憶しているが、日本映画のレベルではハードルが高過ぎて、当時は断念した。













