話は昭和48、9年ごろにさかのぼる。小林幸子不遇の時代がつづくまっただ中のことである。ある土曜日の昼下がり、ボクが勤めていた雑誌の締め切りが迫っていた。事務所には他の部署の社員はおらず、編集部員3、4人。突然、訪ねてきた愛想のいい男は、「こんなものいらんですか」と。それが文房具だったか、事務用品だったか記憶がうろ覚えなのは、けんもほろろにあしらったせいだろう。当時は会社周りの行商や訪問販売が後を絶たなかった。買う気がないと悟った男は諦めがよく、「お忙しいところごめんなさい、これ、うちの娘なんです、小林幸子といいます」と相変わらずニコニコとしながら名刺より一回り小さいモノクロ写真を見せた。「応援してください」と付け加えてそそくさと去っていった。受付のテーブルに置かれたモノクロ写真をあらためて、ボクは同僚の部員に「おーい、今のオヤジさん、小林幸子の親父だったんだ!」と叫んでいた。写真はデビュー曲のドーナツ盤ジャケットにある9歳のころの彼女そのものだった。
「そうそう、『ウソツキ鴎』だ!あの子あの一曲で終わっちゃったなぁ」と同僚もその存在は覚えていたのだろう。「9歳でデビューしてもう10年近くなるというのに、後がつづかなかった。親父さんも大変だね」。そんな会話をしたことは覚えている。新潟市内で精肉店を営んでいた一家は上京し総出で娘の才能に賭けたのだろうか。デビュー曲のヒットは幸いだったが、浮沈の激しい芸能界、美空ひばりしかり島倉千代子しかり、それぞれに雌伏の時がある。父親の行商姿とキャンペーンと称したドサ周りの少女の姿が悲しく重なるが、しかし、人生、何が幸いするか分からない。