以前、堺雅人、高畑充希が主演の映画『DISTINY 鎌倉ものがたり』(2017)は前評判がよかったが、CGを駆使したファンタジー映画にちょっと感情移入ができなかった。ところが、流れてきたエンディングの楽曲、宇多田ヒカルの「あなた」に聴き惚れてしまった。早速CDを買って覚えようとしたが、難しい。複雑な構成で音域も広く高音のサビはなかなか歌いこなせない。英語が混じる歌詞はいつの間にか忘れてしまう。宇多田ヒカルの「あなた」をカラオケで歌うのはとても無理だと実感した。
それなのに半世紀も前に大ヒットした同じ曲名の「あなた」。小坂明子が歌った楽曲は今でも歌えるし、ちょっぴりふくよかで長い黒髪が印象的な少女がピアノの前で歌う姿も浮かんでくるのだ。
小さな家、大きな窓、古い暖炉、真っ赤なバラ、白いパンジー、子犬……それらは、幸せの象徴のように思えた。「あなた、あなた、あーなーたー」と意味も考えず、友人と歌いながら下校していた頃が思い出される。「あなた」は、小坂の初恋の相手とのかなわぬ恋を歌ったものだったのだ。第6回「ヤマハポピュラーソングコンテスト」でグランプリを獲得し、その後の世界歌謡祭でも最優秀賞・グランプリを受賞。そして年末の12月21日にレコードがリリースされた。累計200万枚を超える売り上げは、「女性シンガーソングライターによる最初のヒット曲」と称されるほど、日本の音楽史に名を残している。
当時小坂はまだ16歳の高校生2年生だった。その頃はテレビでたくさんの恋の歌が流れていたが、小坂は、「好き」とか「愛している」といった言葉があふれる中で、ダイレクトな言葉を使わないラブソングを書きたいと思っていた。なかでも男性3人のフォークグループ〝ガロ〟の大ファンだった小坂は、音楽家の父に、「ガロに会ってみたい」と話したところ、「ヤマハポピュラーソングコンテスト」(以下ポプコン)の作詞作曲部門に応募して、歌手名のところに「ガロ希望」と書いたら、希望が叶うかしれないぞ、と教えられた。小坂の父、小坂務はポプコンの審査委員長をしており、まさか娘が応募し、グランプリを獲るなど予想もしていなかったのだろう。のちに、小坂が出場した1974年のNHK紅白歌合戦では、父の務が指揮をした。