当連載で度々話題になる日本テレビの「スター誕生!」だが、桜田淳子も「スタ誕!」の出身だ。番組がスタートしたのが1971年(昭和46)。翌年森昌子が「せんせい」でデビューし、その年の7月、秋田のデパートで予選会があった。当時の番組プロデューサーの回顧録を読むと、そこに白い帽子を被った桜田が60人くらい部屋の真ん中に座っていた。ワンフレーズを歌って帰るのだが、桜田は先に歌っている子に合わせて口ずさみ、順番が来て歌い出すと短い間に、ブザーが鳴って合格となったという。
スターになる人には、磨いて光っていく原石のきらめきを持っている人と、最初から輝いている人がいるが、間違いなく桜田淳子は後者で、オーディションに来た時点で完成品だったとプロデューサーは振り返る。その後決戦大会では25社もの札が上がった。デビューした88組の中で最高の数である。森昌子は13社、山口百恵は20社だった。余談だが、中森明菜は2回落選し3回の挑戦で最高得点を獲得して合格した。
その後、多くのスカウト会社の中から、森田健作が所属していたサンミュージックを選び、デビュー曲の「天使も夢みる」はオリコンチャートで12位になるなど良いスタートを切った。
多くの人にはデビュー3曲目の「わたしの青い鳥」(作詞・阿久悠、作曲中村泰士)の方が印象に強いのではないだろうか。首をかしげ人差し指を耳もとに持ってきて「クック クック」と歌う子供たちがたくさんいた。デビュー5作目の「三色すみれ」までは中村泰士が作曲、6作目の「黄色いリボン」から作曲が森田公一に変わる。作詞はシングル20曲のB面も合わせ阿久悠だ。桜田の14歳から19歳までを阿久悠をはじめとする大人たちが〝アイドル桜田淳子〟をつくり上げてきた。
桜田はそれに応え、〝がんばり屋の淳ちゃん〟として懸命に頑張っていたが、譜面をみてハラハラと涙をしたのが、中島みゆきから提供された「しあわせ芝居」だった。ジャケット写真も、黒のワンピースを大人の女性らしく着こなしている。
どんなことも聞いてくれる〝優しい彼〟なのだが、気がつけば「電話をしているのは自分だけ、あの人からくることはない」というフレーズは、悲しい恋のおわりを予感させる。「しあわせ芝居」は桜田を大人の歌手へと飛躍させた曲だった。その後「追いかけてヨコハマ」「20才になれば」「化粧」と4曲のシングル曲を中島は桜田に提供した。
〝中三トリオ〟から一緒だった山口百恵は、21才で芸能活動に自ら幕を引いた。桜田は83年9月の小椋佳作曲のシングル「朧月夜」のリリースを最後に歌手活動にピリオドをうち、本格的に女優業へ転身し、芸術選奨新人賞や菊田一夫演劇賞など多くの賞も受賞した。個人的には、高倉健主演の『動乱』(80)で、将校の妻を演じた吉永小百合とは反対の現代女性を演じた桜田が印象に残っている。その後、93年の映画『お引越し』を最後に表舞台に出ることはなくなってしまった。
2013年、サンミュージックの相澤秀禎会長の通夜に参列した姿をテレビで目にした。相澤会長は、アイドル時代の桜田を徹底的にサポートし、引退してからも定期的に会い、心のケアを続けたようだ。
『中島みゆき 劇場版 夜会の軌跡 1989~2002』のエンドロールには、「DAD 川上源一」とあった。川上源一はヤマハの4代目社長であるが、ヤマハ音楽振興会の創始者で、75年のポプコンで、「時代」を歌った中島の将来性をいち早く感じ、ギター一本で歌うことを薦め、中島はグランプリを獲得した。それ以後も川上はサポートを続けた。そんな敬意を込め、「DAD 川上源一」と記されているという。
大輪の花を咲かせるスターにはよき理解者が陰にいることは大きな要素だ。そしてその〝師〟の恩に報いることを忘れてはならない。人の道を大切にする人でなければ、大成しないのだろう。今回「しあわせ芝居」を聴き、「夜会」を観て、桜田淳子と、中島みゆきに通じる人としての義理の通し方をみたような気がした。
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫