東映時代劇全盛で、大人も子供も最高の娯楽が映画鑑賞という時代だった。満員の場内からスクリーンに向かって、「いよっ! 千恵蔵!」と掛け声が飛ぶ名場面は、すすり泣きさえ聞こえていたのだ。しかし、この時の映画『国定忠治』の名シーンと東海林太郎の楽曲「名月赤城山」が主題歌だったのか、エンディングで流れたのか記憶が定かではない。
国定忠治と再び三度出会うのは、それから間もなく大衆演劇の「篠原演芸場」だった。館主の息子が中学の同級生という縁もあったが、いわゆる旅芸人、旅役者団が入れ替わりにやって来る演芸場が同じ十条映画劇場から数百メートルといっていい距離にあって(現存している)、頻繁にミキおばさんに連れられて、観劇できたことはラッキーだった。すぐ目の前で役者たちの唾が飛んでくるような席を陣取り茣蓙の上に直に座り込んで舞台を見上げていた。国定忠治といえば、弱気を助け強気をくじく正義の渡世人。舞台狭し大殺陣がしばらく止まない。追手をはらって静寂が来ると忠治は子分たちに向かっての名口上だ。人口に膾炙(かいしゃ)されてきた名文句は廃れない。以下は定番となっている「新国劇」の一部を抜粋。
「赤城の山も今宵かぎり 生まれ故郷の国定村や 縄張りを捨て 可愛い子分のてめえたちとも 別れ別れになるかどでだ」とはじまる名文句とともに赤城山の名シーン。子分が、「雁が鳴いて南の空へ飛んで行かぁ」と言えば、真っ白くドーランを塗った忠治は、「あいつもやっぱり 故郷の空が恋しいんだろう (刀を抜いて垂れ幕に描かれた月光にかざし)加賀の国の住人・小松五郎義兼が鍛えし業物(わざもの)万年溜(まんねんだめ)の雪水に浄めて 俺にゃあ生涯(しょうげえ)てめえという強い味方があったのだ」と見得を切る。まだ追手が迫っている。「親分!」「親分!」呼び掛ける子分たちに別れの目配りをして忠治は右の袖に姿を消す。同時に拍子木がタン、タン、タン、タ、タ、タ…と叩かれて幕が引かれ、東海林太郎の「名月赤城山」が流れる。当時のスピーカーのこと、多少雑音が気になったが、長い前奏があって、男ごころに男が惚れて…あのテノールに近いバリトンの歌唱がしみじみと場内に響き渡る。子ども心にもシンとした気持ちになったことをはっきりと覚えている。ミキおばさんは首に巻いていた手拭いでしきりと顔をふき、舞台に向かって用意していたお捻りを投げた。タバコの箱が投げられ、小さく畳まれたお札がそのまま飛んでいた。嵐のような感動の拍手と掛け声が鳴りやまない。帰りに玩具店で竹の刀をすがって買ってもらい、すっかり忠治になり切って諳んじた赤城山での別れの文句を真似ながら、銀色に塗られた抜身を天に突いたのだった。
「名月赤城山」と「国定忠治」という浪花節風の昭和流行歌と、先述した燕尾服すがたの東海林太郎とはどう見てもミスマッチだと思っていた。だが、東海林の生き方を振り返れば、奇をてらったわけでもなく歌唱することに真摯に向き合った人だった。音楽の夢を捨てられずに満州から帰国後、基礎となる声楽をしっかりと学んでいることはずっと後で知った。時事新報社主催の「第2回音楽コンクール」の声楽部門で「我恨まず」(ロベルト・シューマン)、仮面舞踏会からのアリア「レナートの詠唱」を独唱し、入賞するほどの実力だったという。声楽家には燕尾服は制服のはずで、生半可な音楽の道への選択ではなかったのだ。
その後流行歌手に転じるが、音楽に取り組む姿勢は確固としたものがあった。東海林は「一唱民楽」という言葉を残している。「歌は民のため」という信念を持っており、常に真剣勝負という気持ちで歌唱した。東海林太郎にとってクラシック音楽も流行歌も変わりはなかった。「歌手として、このわたしの立つ一尺四方は道場だ。この舞台はわたしの修養の場だ」と、出身地の秋田県秋田市にある「東海林太郎音楽館」の入り口のパネルに「誇り」と題された東海林太郎自身の言葉が掲げられている。
歌謡界を牽引していた東海林太郎は、歌手の権利を守ろうと1963年(昭和38年)には任意団体「日本歌手協会」を設立して初代会長に就任、そうした功績に対して1965年(昭和40)紫綬褒章を受章。同協会も60周年を迎えている。
1951年(昭和26)第1回NHK紅白歌合戦には「赤城かりがね」の歌唱で出場し、1955年(昭和30)第6回NHK紅白歌合戦では「義経の唄」、1956年(昭和31)第7回NHK紅白歌合戦では「赤城の子守唄」、1965年(昭和40)第16回NHK紅白歌合戦も「赤城の子守唄」で出場している。残念ながら紅白において「名月赤城山」の歌唱はなかった。しかし、1965年(昭和40)第7回日本レコード大賞特別賞、1969年(昭和44)勲四等旭日小綬章、1972年(昭和47)NHK放送文化賞。同年、脳内出血によって急死したが、秋の叙勲では勲三等瑞宝章受章、第3回日本歌謡大賞放送音楽特別賞受賞、日本の歌謡界に燦然と輝く足跡を遺した。享年73。
文:村澤次郎 イラスト:山﨑杉夫