1959年(昭和34)頃、〈佐川ミツオ〉はロカビリー歌手だった、と言っても知っている人は少ないかもしれない。何と!樹木希林の夫の内田裕也と「クレイジー・バブルス」という名のバンドを組んで、現代ならさしずめライブハウスのような小さなステージのあるジャズ喫茶、神戸の「白馬車」、大阪の「銀馬車」のオーディションに受かって歌いまくっていたのだ。世はロカビリーに沸く時代、東京有楽町の日劇ミュージックホールでの山下敬二郎、ミッキーカーチス、平尾昌晃らが、女子ファンが投げ込む紙テープの嵐の中で、ステージ狭しと暴れまくった日劇ウエスタンカーニバルのことを思えば、関西でも同じような光景だったことだろう。間もなく、後に作曲家となった中村泰士が前座を務めるようになるが、東西のロカビリー大会で知遇を得た堀威夫(ホリプロ創業者)の誘いに乗って上京。
1960年(昭和35)、佐川ミツオを名乗って「二人の並木径」を歌って歌手デビューする。次に、両サイドの鍔(ツバ)を丸めたウエスタンハット(当時は流行っていた)を被り、ギターを抱えて歌唱した「無情の夢」(1935年のカバー曲)をスイング調を出してヒットさせ、さらにリバイバルブームの勢いを駆って大正4年の名曲「ゴンドラの唄」(黒澤明監督の映画『生きる』(52)で志村喬がブランコに乗って歌った)を歌唱してヒットさせる。そして作詞:宮川哲夫、作曲:渡久地政信によるオリジナル曲「背広姿の渡り鳥」と立て続けにヒットを連発した。61年「背広姿の渡り鳥」、62年「太陽に向かって」でNHK紅白歌合戦に2年連続出場を果たしている。熱狂するファンは、演歌のような歌謡曲を洋楽っぽく歌唱する佐川ミツオに新しさを見い出したのかも知れない。
しかし、好事魔多し。結核を患って入院生活を余儀なくされ、降ってわいたようなバブル的人気に有頂天になっていたせいか周囲から悪評がたち、たちまち人気急降下の憂き目に遭う。天から地へと落ち込む中で、救ってくれたのは前座だった中村泰士。落ち込んでいる佐川の前でギターをつま弾きながら、あっという間に「今は幸せかい」を作曲してしまう。しかしビッグヒットになるまでは、紆余曲折があった。落ち目の佐川が音楽出版社に持ち回っても門前払いで、仕方なく自前で500枚のレコードを作って満を持し、大阪の盛り場を配り回って頭を下げた。しばらくすると、有線放送のリクエストが相次いで、ヒットの予感がしたと思うのも束の間、レコード会社各社から正式なリリースの打診が届くのだ。かくて佐川満男の名で歌唱した「今は幸せかい」(作詞・作曲;中村泰士、編曲:小林亜星)は、1968年(昭和43)最もリリースの条件が良かった日本コロムビアから発売。何と60万枚の大ヒットを記録し、翌1969年(昭和44)、第20回NHK紅白歌合戦に再出場したが、「佐川満男」としては「初出場」と記録された。余勢を駆って1970年には、「いつでもどうぞ」で連続出場するが、演歌のように語りかける甘い歌声の佐川満男の記憶は、ここで途絶えた。その後、伊東ゆかりと結婚、破綻、歌謡界からも遠くなるが、当時の佐川満男のことは全く情報もなく興味がわかなかった。
それにしても落ち目の佐川に〝今は幸せかい〟と問いかけるような作詞、作曲を提供した中村泰士、シャレのつもりではなかったと思うが、佐川もまたよく飛びついたものだと思う。失意にある佐川にとって失恋の歌は辛かったろうに。わが身の不作為を棚に上げて、離れてゆく彼女に、遅かったのかい、などと未練がましく縋っているように見え、悔やんでみても君はもういないのだから始まらないが、今は幸せかい、と虚しく問いかけている。人気の頂点で挫折を味わった佐川の心情には、よく似合ったのかも知れない。他人事のように書いたが、折から、カラオケスナック全盛で入り浸っていたボクは、「今は幸せかい」と甘えるような鼻声でスナックの女性に縋っていたのである。
マイクの前に立つ佐川満男、ギターを抱えて歌唱する佐川満男が焼きついているせいか、すっかり禿げ上がった彼を映画やドラマで見つけると、「おっ!出てる」と懐かしく嬉しくなるのだ。職人気質の頑固さが滲み出ていて、どこか達観したような人生の酸いも甘いも噛み分けた、すぐ隣に居そうな〝おっさん〟佐川満男、いぶし銀のような名バイプレーヤーがまた一人いなくなった。ご冥福を祈る。
文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫