クール・ファイブ14枚目のシングルとして「そして、神戸」がリリースされたのは72年の11月だった。オリコンシングルチャートでも6位というヒットだったが、その年の紅白歌合戦にはなぜか出場していない。作詞は「わたしの彼は左きき」「なみだの操」「ひと夏の経験」の千家和也、作曲は「終着駅」「舟歌」「石狩挽歌」の浜圭介、編曲は「君といつまでも」「わたしの城下町」「よろしく哀愁」の森岡賢一郎で、浜圭介はレコード大賞作曲賞を受賞している。また、楽曲は日本有線大賞の大賞を受賞している。紅白歌合戦では内山田洋とクール・ファイブとして「そして、神戸」が歌唱されることはなかった。
前川清がクール・ファイブを脱退してソロ活動を本格的に始めたのは87年だった。クール・ファイブ時代にも、82年にはソロ歌手として、糸井重里作詞、坂本龍一作・編曲の「雪列車」などをリリースしていた。クール・ファイブのボーカルとはまた趣を異にする、歌手・前川清の新たな魅力が引き出されたような楽曲だった。そして、91年にソロとして初めて紅白歌合戦に出場したときの歌唱曲が「そして、神戸」だった。前川清としては2008年まで連続18回紅白歌合戦に出場しているが、なんと4回も「そして、神戸」を披露している。
阪神淡路大震災が起こった95年の紅白で、前川は被災者への応援メッセージの意味も込めて「そして、神戸」を歌った。「そして、神戸」は別れを綴った歌詞であったため、被災し多くの大切な人たちとの別れを体験した神戸の人たちにとってつらい曲ではないかと考えた前川は、いったんは「そして、神戸」の歌唱の封印を決めたが、その封印を解いたのは他ならぬ被災者の想いだった。
美しい神戸の風景、愛する人たちの笑顔と、その想い出は、辛い別れがあっても、後に残された人たちにとっては決して忘れることのできない大切なメモリーであり、むしろ生きてゆく勇気につながったのかもしれない。それは震災を経験し、たとえようのない悲しみを背負った人でなければわからないが、95年の紅白歌合戦に前川の出場が決まったとき、被災者の多くから、前川へ、そしてNHKにも「そして、神戸」への多くのリクエストがあったと聞く。前川の歌声に、神戸の夜景の生中継が重ねられた。神戸の人たちは、どんな想いでその景色をみているだろうかと想像したとき、胸がしめつけられた。
「そして、神戸」は、被災者の心の支えになっていたのだ。その思いを知った前川は、大震災から30年経った今も、神戸の人々の心を支え続ける「そして、神戸」を、震災を経験した人たちの悲しみに寄り添いながら襟をただして歌い続け、「この歌を誰もぼくのようには歌えないと思っています」と言い切る。使命としてこの曲を歌い続けるといった強い心を感じさせられる。
歌い出しの「神戸、泣いてどうなるのか」という歌詞がなんとも切なく心に響く。その後2004年の紅白ではゴスペラーズとの共演で、2007年にはクール・ファイブとの共演で、披露している。ぼくは大震災の前年の94年に、当時編集を担当していた雑誌で、関西国際空港の開港をベースにして「素顔の神戸」という特集企画を組み一週間近く神戸の街を取材し、多くの人たちの温かい心に触れた。震災の模様を伝えるニュース映像からは、あまりにも様変わりした、ぼくの知らない神戸の街が映し出されていた。取材のときも、そうだったが、毎年1月17日の声を聞くと、ぼくの頭の中で「そして、神戸」のイントロが流れ始める。それにしても「そして、神戸」というのは、なんていいタイトルだろう。
文=渋村 徹 イラスト=山﨑杉夫