そういえば映画のシーンに拍手を送ったのは、すでに多くのファンを得て東映時代劇のヒーローだった『旗本退屈男』で、市川歌右衛門扮する早乙女主水之介が白馬に跨って、危機迫る姫君を助けに向かう場面だった。蹄(ひづめ)の音も高らかに効果音響が重なって、敵陣もものかは〝快刀乱舞〟の戦いを予感させて盛り上げた。「姫~!」だったのか(?)何やら叫びながら、馬上の主水之介は助けに向かう。やがて、市川歌右衛門の額にある三日月形の刀傷(かたなきず)のトレードマークを、「この天下御免の向う傷!」と啖呵を切る決まり文句で始まるチャンバラ劇に、大人も子供もヤンヤの喝采を上げた。忘れもしない、上映が終って映画館を出るや否や、ボクはすっかり早乙女主水之介になりきっていて歌右衛門の流れるような殺陣を真似ながら帰ったものだった。
想えば、月光仮面も白い覆面(ターバン)の額に三日月のシンボルがあって、原作者の川内康範は、「人々の苦難を救済する、菩薩」であり、月光菩薩の生まれ変わりとして連想させていたのだという。時代劇と現代劇の同じような勧善懲悪ドラマに、日本中が沸いていた時代だった。第二次大戦後、占領下だった日本の復活のために時代はヒーローを求めていたのだろうか。強いヒーローは、悪事を赦さず、正義のために戦い、月光仮面の二丁拳銃はもっぱら敵に命中させず牽制と威嚇のために発砲するだけだった。作家・川内康範は敵をも赦すことに、〝惻隠〟の情を教えたのだろうか。生まれ育った北海道函館市松風町にある川内自らが寄贈した月光仮面像の銘板には、「憎むな、殺すな、赦しましょう」と刻まれている。父親は寺を持たない日蓮宗の僧侶だったといい、幼児から教え込まれた揺るぎない宗教的バックボーン(正義感)があったはずである。
実は、原作者の川内康範にたった一度だけ、お目にかかったことがある。とは言っても、原稿取り程度のお使いだった。後に火事で全焼する東京・赤坂見附(千代田区永田町)のホテル・ニュージャパンの一室の仕事場に訪ねた。新聞を円く畳んでドアに挟み半開きだった部屋を覗くと、本や新聞雑誌の山の中に川内康範はいた。もとより高名な作家、作詞家であり、憂国の思想家であり、痩身にしてその面貌は武士(もののふ)そのもの。ビビッていたボクに、ひと言、「ご苦労さま」とA4茶封筒に入った原稿を渡してくれた。それでもすぐに追い返すには忍びなかったのか、雑誌の現状などあれこれと問いかけてくれて、ボクは冷や汗をかきながら返答していた。何を訊かれしゃべったか覚えはないが、緊張この上なく、這う這うの体で辞去した。
すでに月光仮面だけの川内康範どころではなく、「誰よりも君を愛す」(和田弘とマヒナスターズ)、「君こそわが命」(水原弘)、「骨まで愛して」(城卓矢)、「恍惚のブルース」(青江三奈)、「花と蝶」(森進一)、「伊勢佐木町ブルース」(青江三奈)、「おふくろさん」(森進一)など数多くの歌謡曲のヒット曲を送り出した作詞家としての高名轟くばかりであったし、週刊誌の連載小説を数誌同時に執筆していた売れっ子の作家だった。その活躍の場は映画の原作、脚本などもあって膨大な作品群を遺している。テレビアニメの「まんが日本昔ばなし」は、原作から監修、主題歌まで川内によるもので、名作として今も語り継がれている。ここで全てを紹介できないが、昭和の芸能界はもとより文学界に名を残し、水面下では政界にも影響した〝大物〟だった。
振り返れば、『月光仮面』が始まった頃のテレビ受像機の普及は、未だしの感があった。ミッチーブームと呼ばれ皇太子様(現上皇陛下)のご成婚が翌1959年(昭和34)で、一気にテレビの普及が広がったのは周知のとおり。長嶋茂雄さんが日本中のヒーローになったのも同じ年の6月25日後楽園球場の阪神対巨人戦だった。昭和天皇と香淳皇后ご臨席のいわゆる〝天覧試合〟は4対4のまま両陛下ご退席の時間も迫る9回裏、先頭バッターの長嶋さんがレフトスタンドにサヨナラホームランを放ったことは、日本球史に残る名場面であり、球界に不世出のヒーローが誕生した瞬間だった。それまでボクも野球大好き少年ではあったが、パ・リーグ人気に偏っていて、以降、ご多分に漏れず長嶋茂雄さんの巨人軍を追うこと一辺倒になった。長嶋茂雄、月光仮面、旗本退屈男、力道山もいたっけ、それぞれ何の脈略もないが、昭和とは輝かしいヒーローがいた時代だった。
文:村澤 次郎 イラスト:山﨑 杉夫









