さて、本題の「王将」は、明治から昭和初期まで活躍した実在の将棋棋士・坂田三吉をモデルに歌っている。現・大阪府堺市生まれの坂田は家業の草履づくりの職人を目指して丁稚奉公に出る。幼少の頃から街角の縁台将棋が大好きで、勉学に身が入らず早々に退学してしまって、生涯読み書きができなかった。ただし将棋だけは天才ぶりを発揮し賭け将棋で大人たちを負かしていた。10代前半、父を亡くし家族の生活は三吉の肩に掛かったが、賭け将棋の稼ぎで支えたという。逸話に事欠かないがその波乱万丈の生涯はたびたび映画や舞台でも題材となっている。
1947年(昭和22)に坂田三吉をモデルにした戯曲を北條秀司が発表し、翌年大映映画『王将』が公開された。監督・伊藤大輔、坂田三吉を坂東妻三郎が演じ昭和23年芸術祭賞映画部門を受賞。さらに、1955年新東宝で『王将一代』として映画化、主演・辰巳柳太郎、女房の小春を田中絹代が演じたが、島田正吾ら主要キャストは新国劇の面々で監督も伊藤大輔。さらに伊藤大輔は1962年に東映で『王将』を主演・三國連太郎、女房小春を淡島千景で作り、2度のリメイクに挑戦している。この東映作品は、村田英雄の楽曲「王将」大ヒットの勢いを借りた形で、当然主題歌となり村田自ら出演している。さらに1973年、東宝の『王将』(監督・堀川弘通)は勝新太郎が主演・坂田三吉を演じ小春は中村玉緒というから、まさに夫唱婦随。それだけ坂田三吉ドラマは映画の題材になりやすかったのだろう。常にハラハラドキドキさせ家族の絆をも感動的に描かれた。本稿を書くにあたって、辰巳柳太郎の『王将一代』を観たが、辰巳の迫真迫る芝居には圧倒されるし、田中絹代がひたすら団扇太鼓をたたいて「南無妙法蓮華経」と連呼する、亭主の必勝祈願のシーンには涙がこぼれた。
坂田三吉とははるかに後輩だが、昭和の棋界の鬼才と呼ばれ初めて三冠独占(名人・王将・九段)した棋士・升田幸三(1913年~1991)の謦咳に接したことがある。奇人で、天衣無縫ぶりは映画の坂田三吉を彷彿とさせ、ざんばら髪、ヒゲの手入れもおろそか、抜けた一本歯にいつも煙草が挟まっていたし、それを忘れて新しい煙草に火を点けること度々だった。「名人(大山康晴)に香車を引いて勝った男」といわれた天才棋士とはこういうものか、と近寄りがたかったが、その人生論は勝負師そのもの。著書出版の依頼で訪ねた新米編集者にとっては、常に傾聴に値する挿話が魅力だった。直弟子ではないにもかかわらず、「坂田さんから直接親しく将棋を教えてもらった」と語れる棋士は、当時そう多くはいないだろう。こんな話をしてくれた。
「若い頃、師匠の木見金治郎九段の内弟子として修業したが、よく使い走りをさせられた。ある日のこと、使いで豆腐を買った帰りに、ぼーっとして何を考え込んでいたのか豆腐を落としてしまった。こなごなになった豆腐を持ち帰ったが、師匠はこう言った。〝お前の用事は豆腐を買って来ることが一番大事なことだったんだよ〟と。その瞬間、何を為すにもその時一番大事なことに集中すること、一丁の豆腐を大事に抱え込むようにして帰るべきだった、と俺は悟った」。若き升田幸三の豆腐事件の顛末と、坂田三吉の生き様が似ているような気がしてならない。吹けば飛ぶような将棋の駒に命を賭ける集中力が重なるのだ。
さて、NHK紅白歌合戦の村田英雄と三波春夫は敵愾心を露わにしたライバルだったのか。初出場の翌年も「王将」を歌唱した村田、5回連続の三波は「巨匠」(ただ出番は三波が早く村田は終盤)、3度目出場の村田「柔道一代」VS.三波は「佐渡の恋唄」で白組トリを飾る。1964年は「皆の衆」で村田が中盤を盛り上げ、紅組トリの美空ひばり「柔」に対して再び大トリで三波が長編歌謡浪曲「俵星玄蕃」で迎え撃つ。三波の「俵星玄蕃」の熱演にボクもさすがに唸らされた覚えがある。さらに1966年三波春夫は「紀伊国屋文左衛門」で大トリを務め、美空ひばりの「悲しい酒」に対抗している。残念ながら村田はヒット曲とはいえない「祝い節」を歌唱。
以後、村田英雄は69年に3回目の「王将」をはさみ紅白出場歴は12年連続。病を得て1年措いて1974年に返り咲くが、しばらく過去のヒット曲で凌ぐ時代を経ている。この間村田は歌をやめて映画俳優になったのかと言われるほど、東映映画の任侠ヤクザ路線に出ずっぱりだった。それでも2014年の第65回まで最多出場回数の珍記録保持者で、通算27回の出場歴だった。1989年生涯最後の紅白出場では「王将」を歌唱(4回目)したが、ついに「白組トリ」を飾ることがなかった。一方、三波は、白組トリ2回、大トリ3回を飾った。村田VS.三波のライバル史ではあるが、二人はNHK紅白歌合戦を長く支えてきた功労者と言えるだろう。
同じ浪曲出身というだけで周囲がライバル関係を構築し面白おかしく不仲説がつくられたという。だが、村田英雄は先輩歌手として三波春夫を慕っていたしリスペクトしていたと伝えられている。糖尿病からの闘病は三波よりはるかに長く自らは足を切断するほどの大病の中で、三波が癌に斃れたことを知ると(2001年4月)、「もっと歌って欲しかった。非常に寂しい」と嘆いたという。三波を追うようにして2002年6月永眠した。享年73。
文:村澤次郎 イラスト:山﨑杉夫













