
少年時代、分かりやすく言えば小学校の頃、大人の流行歌が好きだった。その中でもボクはどんな歌を聴いていたのか、歌っていたのか。折に触れ、回想したりノスタルジーに浸ったりすることがある。たとえば、5つ年上だが、東京上野の黒門町で少年時代を過ごした小椋佳は、テレビで「三橋美智也です」とはっきり答えていた。「そうか!小椋佳にして三橋美智也か!」と驚かされた。実家が大分県のお寺さんの三男坊、同輩の南こうせつは、「檀家の集まりなどがあるときに三橋美智也を歌うと大絶賛されて、お小遣いをくれた」と、3年前インタビューの機会があった折にご本人から聞いた。実は、東京の城北で育ったボクも三橋美智也の「古城」「哀愁列車」「リンゴ村から」etc.を得意になって歌っていた。「三橋で明けて三橋で暮れる」とまで言われた昭和30年代、小椋佳や南こうせつも同じなのだ、とほくそ笑んでいる。
相前後して、洋楽ポップスが盛んにラジオから聴こえてきた。リアルタイムでテレビ映像では見ることはなかったアーチストばかり。コニー・フランシスやポール・アンカ、パット・ブーン、エルビス・プレスリーなどに交じってカンツォーネまで。洋楽が大量に流入し間髪入れず、飯田久彦やザ・ピーナッツ、ダニー飯田とパラダイスキング、坂本九らが登場して洋楽カバーの日本語ポップスの〝ごった煮時代〟まっただ中にいた。日本にザ・ビートルズ旋風が吹く前夜の話。
すると静かに染み入るようにフォークソングが聴こえてきた。訳も分からず、ジョーン・バエズの「ドナドナ」、「朝日のあたる家」の哀調に聴き入り、ピーター・ポール&マリー(PP&M)の「500マイル」、「レモン・トゥリー」、「花はどこへ行った」、そして「パフ」やボブ・ディランをカバーした「風に吹かれて」などを、そら覚えした。ボクにはポピュラーソングだと思えたからだった。小遣いをはたいてアルバムを手に入れていなければ、和訳の歌詞に触れることもなく、ベトナム反戦や人種差別、公民権運動など社会正義を訴えていることなど知らずじまいだっただろう。
するとまたたく間に、日本語のフォークソング時代がやってきたのだった。学生運動と呼応しながら、岡林信康、高石友也などプロテスト・フォーク、反戦フォークが台頭。受験を控えていながらノンポリだったボクは新宿西口の地下広場で多くの大学生たちに交じって、〝We shall overcome(勝利を我らに)〟を声高らかに歌った記憶がはっきりとある。ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・タイガースなど人気のグループサウンズ(GS)が後を追ってきたのを横目に、1970年代に入ると、吉田拓郎や井上陽水、中島みゆき、荒井由実(松任谷由実)、森山良子らがフォークソングというジャンルに区分けされて相次いで注目されるが、そこに間隙を縫って思わぬ伏兵が登場した。

当時は全く無名の、千賀かほる。歳は一つ上の美人で、西田佐知子似の素敵なお姉さんだった。関西のOSK歌劇団出身というが、「OSKって何?」(「ブギの女王」笠置シヅ子が在籍)程度の認識。それでもデビュー曲が一気に売れ出した。なぜか、「フォークソングの名曲」と冠が付いた「真夜中のギター」(1969年、作詞:吉岡治、作曲:河村利夫、日本コロムビア)。確かに覚えやすく繊細なメロディーをしっかりとした歌唱力の千賀かほるが、アコースティックギターのアルペジオ伴奏で弾き語りのように歌唱している。その発声には〝クセ〟がない。斜に構えたところがない。素直でストレートな歌唱だ。反戦フォークを聴いているボクは、初めは「これがフォークか?」と疑問符が付いていた。フォークっぽいけど、歌謡曲ととらえていたのだ。













