俳優座の研究生候補から、俳優座養成所の1期生になる
岩崎加根子さんが俳優座の試験を受けたのはまだ養成所が設立される前1948年だった。研究生候補に合格し、養成所が設立された49年11月にそのまま1期生として編入された。養成所設立以前にアカデミーというのがあり、すでに先輩の研究生たちがいた。座内発表で田中千禾夫の『おふくろ』という芝居で、峰子という女学生の役を演じた。毎日ホールの創作劇研究会の一作品として上演され、それが俳優・岩崎加根子の初舞台になった。49年の2月だった。養成所ができる前に初舞台を踏んだわけである。
「立華女学園に通っていまして、戦争で校舎も焼けて、憲兵隊員がいた兵舎のようなところを校舎として使っていました。そのころは、授業すらあったりなかったりという時代で、ましてや部活なんていうものもなかったのですが、土曜日の午後はみんな好きなことをやっていいということで、演劇部、音楽部、運動部、日本舞踊部といったものがあったんです。私は子供のころから日本舞踊を少しやっていましたので、久しぶりに戦時下ではできなかった日本舞踊を習おうかしらと思ったのですが、流派が違っていて何かちょっと違うかなと。かといって運動するにはそのころ身体が弱かったので無理かなと。そしたら、演劇部って面白いから見にいらっしゃいと友だちに誘われて見に行きましたらシェイクスピアなんかをやってて楽しそうでした。後に日本テレビのディレクターになられる池田義一さんが先生として教えていらして、今でいう〝イケメン〟のすてきな先生で、みんな憧れちゃって。私もそんな一人で、それで演劇部に入りました。
学芸会があって、「私が書いたものをやりましょう」と池田先生がおっしゃって、ロシアの民話『雪娘』という作品に出ることになりました。私はただ一生懸命やっただけなんですが、そうしたらお客様から歓声が沸き拍手がおこったんてす。私は本を読むのが好きで、小さいころから誕生日というと、童話なんかをプレゼントされていて、童話の中の人物になったつもりでやるのって面白いんだなと、芝居に興味を持ったんです。だからと言って、俳優になる気なんてありませんでした。
学校の制度が6・3・3制という新制度に変わる時代で、私が通っていたのは5年制の女学園で、私は3年生でした。この学校は新制度の導入により中学までしかないので、女学園の卒業証明書があれば高校へ入学できるということでした。そんなときに、池田先生が俳優座の試験を受けたらどうですかと勧めてくださいました。高校へ行くより演劇を目指したほうがいいですよ、と私の知らないところで母の説得に家を訪ねていらしたらしいんです。私にしてみれば寝耳に水で、女優なんてとんでもない、きれいで、何でもできてという人でなければ女優なんて務まらないと思っていましたので、私になれるわけがないと思っていました。それでも、俳優座はとてもアカデミックなところだから、研究生候補として受けてごらんなさい、女学園の先輩の中村たつさんも受験して研究生になっていますよ、と熱心に説得を続けてくださいました。
中村たつさんはすごい優等生で憧れの先輩でした。中村さんは優秀だからお入りになったのでしょうが、世間も何も知らない、電車だって一人で乗ったことがないのに、無理ですなんて言っていたんですが、池田先生は根気よく勧めてくださって。で、受験に数学の試験がないということもわかって受けることになりました。15歳の子供なんか俳優座にはいらないと言われ、絶対受からないと思っていたのですが、研究生候補として入って、ここでも中村さんの後輩になることができました」
20人くらいの候補生がいたが、養成所ができたときには半数くらいになっていたという。中村たつ、森塚敏らと一緒に岩崎加根子は、養成所一期生となる。一年半、研究生候補として勉強してきたからと2年生として編入した。研究生候補時代に、体操、バレエ、音楽、パントマイム、朗読、それに座内発表で芝居を作るということは勉強させてもらっていた。
養成所は三年制で、まずは英語やフランス語などの語学、映画鑑賞、演劇鑑賞といった座学を学ぶ。研究生候補時代には座学がなかったので、座学は新入生と一緒に勉強した。木下順二、小林秀雄らが講師陣にいた。