『午後の遺言状』は、乙羽さんが肝臓癌であるとわかり新藤さんが同志に贈る最後の作品として用意した。1994年5月17日クランクイン。撮影は快
調に進んだ。新藤の撮影日誌には乙羽の疲労を気遣う記述が目立つ。乙羽は自分の体調を気遣い新藤がOKを早く出し過ぎていないかと心配していた。共演した倍賞美津子さんの証言「監督は乙羽さんといい乙羽さんは先生という。そうして芝居をつけているとき、そこだけお二人の世界で、わぁーっと後光を射していた。監督の目がすごい愛情豊かだった。すごくいい夫婦の姿をよく見せてもらった、いい時間となった」
6月18日、蓼科での乙羽さんの撮影が終わる。新藤さんは花束を贈呈した。乙羽さんの晴れやかな笑顔が写真に残された。
9月4日撮影再開。真夏の暑さが残る新潟寺泊海岸。民宿の二階のシーン。撮影の合間、乙羽さんは階下の階段そばで足を伸ばし壁に背をもたれ目を瞑りぐったりしていた。驚いた。人の目を気にする余裕もなく撮影に備え待っているだけで精一杯のようだった。新藤さんの撮影日誌に「乙羽くん疲労のかげあり」
翌5日、照りつける太陽と熱気のなか砂丘での撮影。老夫婦が入水自殺した海を前に杉村と乙羽が合掌する。可能な限り短時間で撮りきるため万全の体勢で望んだ。乙羽さんが砂に足を取られないように海岸にコンパネを敷き上から砂を薄くかけた。スタッフでテストを繰り返し準備万端整えた上、車で現場に乙羽さんたちを運び入れた。現場に入った乙羽さんは立っているのもやっとのようだった。砂浜に膝を折り砂に足をついた姿は実際にはその格好を気にする余裕もなかったと思うが、老夫婦の死に打ちのめされたように見えた。乙羽さんのラストカットとなった。「乙羽くん帰京、よかった、無事終わってよかった」。よほど安堵したのだろう。
12月22日、乙羽さんは旅だった。
何年もして、新藤さんと乙羽さんの暮らしてきたマンションを訪ねた。一人暮らしとなった新藤さんの居間には、乙羽さんの絵が飾られていた。シナリオを書く机の上には、新藤さんのために乙羽さんが削っていた鉛筆が何十本も並んでいた。
女優を妻にした監督は多いが、これほど一人の女優にこだわり、その可能性を引き出そうとした監督はいないだろう。乙羽が演じたのは、新藤の妻や姉や母親、「性と生」を生きる女たちだったが、新藤には常に変わらないミューズであった。乙羽さんのなかに永遠の女性を見ていたのかもしれない。