─── 国技の語り部が伝える名力士たち
語り下ろし/写真提供 杉山 邦博(文責・編集部)
我、未だ木鶏たり得ず
大相撲本場所、コロナ禍による入場制限が起こる前、力士が出退場する花道横の記者席からじっと土俵を見守っている男がいた。昭和28年NHK入局、ラジオ、テレビの実況放送のアナウンサーとしての現場から杉山邦博の声は全国に流れた。以後69年間の長きにわたって大相撲を見続けてきた。現在91歳、地方場所でも2週間のホテル住まいをして本場所に出かける。「あらゆる情報は現場にあり」という確信をもって常に力士たちと接し、取組を取材する。観客席から実況放送するように瞬きもせず土俵上を凝視する。「相撲は勝ち負けだけの単なるスポーツではない、神事であり国技なのです」と彼は言う。ここに相撲現場の秘蔵のスナップ写真を公開していただき、記憶に残る名力士たちを語ってもらった。
◇天覧相撲と神の祀
大相撲はスポーツという括りのなかで取り上げられていますが、ただ単なるスポーツではありません。千四百年の歴史を伝承してきた日本の大切な文化なのです。文献的にはっきりしたものとして、『日本書紀』に642年皇極(こうぎょく)天皇が百済から賓客をもてなすために相撲を取らせたという記述があります。
もう一つは、神事、神の祀(まつりごと)と深いかかわりのある伝承文化です。いつになく豊作に恵まれた726年、聖武天皇が勅令を発し、力人(ちからびと)を集め伊勢神宮をはじめとした全国21のお社で相撲を取らせました。五穀豊穣を祈願して豊作に恵まれ感謝の祈りを込めた催しで、力人が神前で祈りをささげる相撲を取ったことが、記録として残されています。この二つを、伝承文化とする。忘れてはならないことです。
平安時代になるとさらに相撲への関心が高まります。大規模な国家的行事となり、相撲節会(すまいのせちえ)として恒例化しました。力自慢の者たちが大勢集まってきたなかで、全員に見てもらうわけにはいかないので幕を張り、選ばれた者たちが天皇の前で相撲を取りました。それがいわゆる「幕の内」の語源になったと語り継がれています。
鎌倉時代、源頼朝は相撲好きで、鶴岡八幡宮で相撲を取らせたという文献もあります。織田信長も非常に相撲が好きで「信長公記」には、安土城で相撲を取らせ、勝者に重藤(しげとう)の弓を与えて舞わせたのですが、これが、幕内取組後に披露される弓取り式の始まりと言われています。
江戸時代中期以降、諸国の大名がお抱え力士を持ち、東京でいえば、富岡八幡宮や両国の回向院などで、晴天興行が行われました。やがて明治維新を迎え、武士はちょん髷を切ることになりましたが、相撲は日本の伝承文化なので、力士はそのままでいいということになったのです。
相撲は、晴天興行で庶民の楽しみの一つとして欠かせないものとなり、明治42年6月に東京・両国に屋根付きの相撲場が完成しました。この建物の名称を板垣退助は「尚武館(しょうぶかん)」という案を出しましたが、作家の江見水蔭(えみすいいん)が書いたお披露目の案内状に、「相撲はそもそも日本の国技にして……」との文言に、当時の重役たちの意見が合致し、「国技館」と命名されたのです。後にも先にも「国技」という言葉の定義はなかったのですが、この江見水蔭の「国技として」という文言は、相撲が伝承された文化であることを凝縮した表現であると思っています。長い年月にわたり、時代とともに状況は変わっても、今日まで絶えることなく受け継がれ、そして、神に対する感謝の祈りをささげてきた祀(まつりごと)であることを決して忘れてはなりません。