
中野 同期生というと亡くなった方もすでに多く、その中でも同じ歳で、大学も同窓であり、同じ演劇専攻だった加藤剛とは、僕のほうが少し早く俳優座に入団しましたが、同期のようなつながりがありましたね。僕が入団した62年に、入団前の加藤剛が、いきなりテレビドラマ「人間の條件」の主役に抜擢されて有名になったときは、誇らしく思ったことを憶えています。学生時代の友人が同じ世界で、同時期に俳優として歩み出したということで、お互い俳優座の同期というつきあいでしたね。
──高校生の頃から新劇の芝居を観始めていたという中野誠也。
中野 学生演劇を少しかじってもいて、その頃の演劇青年たちは、俳優座の芝居は一度は観ておかなければいけないと、みんなが思っていました。俳優座の劇場に来てみると、劇場としては小さいんですが、天井が高く奥行があり、演劇の深さ、人間の深さというものに、一瞬にして惹きつけるような演劇を見せられた思いでした。たとえばイプセンの『幽霊』に東山千栄子さんがいらしたり、当時売り出し中の仲代達矢さんが息子役として出ていたりといった俳優の演技、さらには僕なんかには理解が及ばない深い哲学というのか、ドラマを見せられて、これからはこういう芝居でなければいけないという感動を味わわせてくれたのが俳優座の舞台だったんです。
──日本の演劇文化の発展に向けてのリーダー格として俳優座は責任を負っていかなければならない義務をもった劇団ではなかったかと見受けていた、と中野は言う。
中野 千田是也さんや東山千栄子さんを中心としたリーダーの下に、ぜひとも所属したいと思って俳優座を受けたわけですが、40倍くらいの倍率でしたでしょうか。そして、今60数年を経て、俳優座に所属し続けていて間違いなかったと思っています。その間には、アングラを始めとする近代演劇を否定するような傾向というのは、こういう芸術の仕事には絶えずあったと思うんです。それは演劇に関わらず、絵画の世界でも、音楽の世界でもアンチ芸術というのは一つの力として存在していて、あるいは、自分たちの力で、今までの伝統とは違うもの、革新的なものに変化させていきたいというのは常にあって、もちろん今の時代でもそういう潮流は続いているのではないでしょうか。革新的なものが、芸術文化の裏にはいつも流れていると思います。俳優座も、そういう流れの一つとして生まれたのだと思います。
──川口もまた、俳優座に所属したことで、俳優としての多くを習得することができたと言う。
川口 千田先生が俳優座養成所を作られたことの目的として、その当時新しいとされた近代演劇のリアリズムの芝居ができる教養豊かで、身体的訓練も出来上がった人たちを近代俳優として育てあげようという考えをお持ちだったと思うんです。その考え方というのは、当時、私が演劇を志したときの新しいものとして、私の中にはずっと存在し続けています。演劇は素直に人間を表す、語るものとして、感覚的に今もずっと私の中に叩き込まれているんです。この俳優座のやり方も、俳優としての私たちの役目としてあっていいのだと思います。この劇団にいることは、芝居を続けていく上での根幹として私には大事なことだと思っています。人間を描くにあたって大切だと思えることを、私は俳優座で身につけることができたと思っています。