札幌東映は、いくつかの通りが交差する角地にあった映画館で、お客が国鉄(現・JR)や地下鉄の最寄り駅の三方、四方からやってくる。まさに、〝わいてくる〟といったイメージでお客が札幌東映に吸い込まれていく。そんな光景を目にしたときの思いというのは、製作担当者も配給担当者も興行担当者も、恐らくみんな一様に天下をとったような気持になっていたと思う。以前に紹介したが、1978年の『柳生一族の陰謀』も、まさにそんな感じだった。今でもその日の風景がはっきりと目に浮かぶ。大雪だった。にもかかわらず、訪れる客が途切れない。立ち見でも平気なのだ。日本映画の黄金期に映画館に通っていた世代の人たちは、映画館というのは混んでいるもので、座って観るなんてイメージがなく、立ち見が当たり前だと思っている。立ち見でも、スクリーンが見えればいいのだ。「見えますか」と訊いてくるのだから驚きである。映画会社にとって、いい時代だったと言えるかもしれない。『柳生一族の陰謀』は、そんな時代を甦らせてくれた。天下を取ったような瞬間であった。
東映の歴代の社長で、私のようなキャリアから社長になった人物はいなかった。岡田茂や高岩淡のように制作現場を経て社長になった人はいるが、配給、興行の分野から社長になったのは私だけであった。六代目の手塚治はテレビの世界からきた人だった。四代目の岡田裕介は、かつては東宝専属の青春スターだった。初代の大川博は、鉄道省出身である。鉄道省で経理をやっていた。その後、東急に誘われて経理部長を経て、当時子会社の東映の再建のために送り出された人で、そういう意味では映画に関しては素人であった。そして、東映の初代社長になった。現在の七代目社長である吉村文雄は事業推進出身で、関西支社でキャラクターショーなどをセールスするイベント事業に従事していた。
私のようなキャリアで社長になったのは、この業界でも珍しいかもしれない。ある映画会社の会長は、北海道支社からスタートした私の履歴書を見て、28年間北海道支社にいたことがピンとこないらしかった。なにしろ50歳で本社にきたわけだから。てっきり本社にいて、北海道支社長を経て、本社に戻ってきたと思われていたらしい。だから、社長としての私のようなキャリアは珍しかったのだろう。まあ、私のようにわけのわからない人生を送っていても、社長になれるのだということについては、支社の連中は喜んでいたようだ。いずれの仕事にもチャンスがあるということだ。私は、望んで社長になったわけではなく、単純に運によるものだったと思っている。どんなに優秀でも、運に恵まれなければ思い通りにならないこともある。人生において、タイミングや出会いというのは大きい。「運がいいことが一番だから」、と誉め言葉ともつかないことを言われることがある。どんな運かは、わからないが、私にとっての運は出会いだったと思っている。振り返ってみて、いい先輩たちに出会っていることを感謝している。
映画人生半世紀を超えて、さらなる映画への夢ではないが、映画に関わる次世代の人たちへの〝贈る言葉〟があるとしたら、映画で育った私としては、とにかく映画は映画としてあってほしい、興行としてあってほしいなと思う。映画に食べさせてもらったし、映画から大きな喜びももらい、失敗もしたけれどいい思いもした。映画があったから今の私があるわけで、とてつもなく面白い人生を体験できた。だから、いい映画を作ってほしい、面白い映画を作ってほしい、当たる映画を作ってほしいと願うのだ。映画に関してはそれぞれの思いがあると思うが、映画会社の人間としては、みんなが食べていける映画を作ってほしいと切に思う。東映は映像の会社なのだから、まずは映画を作り続けていってほしいというのが一番である。