手足のない会社は衰退するだけである。手足を使って映画を作り続けてはじめて頭が活性化する。頭だけ使って手足を動かさないのではだめだろう。東映というのは、やはり〝作ってなんぼ〟の会社だと思う。製作会社としての会社の成り立ちの原点だ。製作しない東映なんて、誰にも見向きもされないだろう。若い社員たちは、東映という会社ということより、映画を作りたい、映像に携わりたいという思いで東映にやってきたのだと思う。
会社だから、いろんな部署がある。製作がやりたくて入社したものの、経理、人事、総務に配属されたり、あるいは映画の仕事であっても、製作以外の宣伝、配給、興行といった部署に配属されたり、と組織に属しているかぎり思惑通りにいかないことも多々ある。映画を作りたかったのに、と会社を去る人間もいる。だが、それは違うのではないだろうか。経理を経験したことで、数字の面から映画製作を見るという、映画作りの大きな一翼を担うことになる。興行に配属されたら、観客はどんなところで喜んでいるのかといった反応を毎日肌で感じ取ることができるのだ。映画を作るのに、無関係な無駄な時間を過ごすことなどない。目標さえしっかりと持っていれば、道を見失うことがなければ、すべての仕事が映画製作者として身に付いてくる。製作のど真ん中にいなくても、端っこでの仕事だからこそ見えてくる映画製作の仕事というものがある。私の仕事は端っこでの仕事だった。
プログラムピクチャーの時代、2週間ごとに2本立て映画を上映する。つまり1年26週分52本の映画を作ることになる。それを東京と京都の両撮影所で制作していた。ブロックブッキングだから、当たろうと、当たるまいが2週間上映を続けなければいけない。その都度、観客の声を拾い上げこの映画が面白かった、ひどい映画だったといった報告書を毎回本社の営業部に提出しなければならなかった。観客と接していない本社は、その現場の報告書に必ず目を通す。現場は直に客と接し、実際に話をきいたりもする。本社の営業部は、現場からの報告を撮影所に伝える。
1985年に『ビー・バップ・ハイスクール』という映画があった。薬師丸ひろ子主演の『野蛮人のように』の併映作品で、仲村トオルの人気が急上昇するきっかけになった映画である。なんと映画館には、それまであまり映画館に足を運ばなかったような、いわゆる〝やんちゃな兄ちゃん〟たちが次々に映画を観にきた。『野蛮人のように』ではなく、みんな『ビー・バップ・ハイスクール』を観に来るのだ。そうすると九州支社から『ビー・バップ・ハイスクール』の〝2〟を作ってくれと要請があった。もちろん本社も受け入れて、九州支社のアイデアで2作目の『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌』が製作され、シリーズ化された。『トラック野郎』も同様の経緯でシリーズ化された作品だった。
今と違うなと思うのは、その当時は、現場のいろんな意見を吸収する場所があったということだ。営業部、興行部、宣伝部、撮影所、映画館主たちの声を拾い上げるという姿勢があった。それは今もあるべきだと思う。だから、ブランチをなくしてはいけないと思っている。マーケティングを否定するのではない。生きたマーケティングをするべきだと言っているのだ。
岡田茂は撮影所長だったので興行現場のことは何もわからなかったが、岡田の偉いところは、関西支社のセールスや映画館主たちと会ったり飯を食ったりしながら、いろんな意見をきいて、それを映画製作に反映させていたことだ。当時の関西支社や九州支社のセールス担当者が後々、専務、常務、取締役になった例も少なくない。岡田茂には、人の意見に耳を傾け、採択する、そういう目があった。ネタ探しにも意欲的だった。人の話をきかなければだめだ。