心ある女優だからこその
不満と不安を抱えて生きた
生真面目な女優
亡くなったのが2009年だから、死後10年以上も経っているが、大原麗子という女優もいつまでも人々の記憶に刻まれ、語り継がれる女優である。仕事ではなかったが、一度だけ大原さんにお会いしたことがある。帝国劇場に出演中の浅丘ルリ子さんの楽屋におじゃますると、先客がいた。それが大原さんだった。ルリ子さんが紹介してくださって、美しい女優2人に囲まれて至福の時を過ごさせていただいた。「近々舞台出演のご予定は?」と大原さんに訊ねると、「今、脚を悪くしているので」と答えていたが、その後、大原さんが舞台に立つことはなかった。お2人の時間をじゃましないように一足先に劇場にもどると、後から来た大原さんは私の一つ前の席に座った。振り返り私に気づき「あらっ」と、あのハスキーでちょっと甘えた口調で微笑まれたとき、周りの観客の視線を浴びることになり、ちょっとした優越感にひたった。それにしても、マネージャーもつけず一人でいらしているんだとも思った。
早田雄二撮影の大原麗子の写真を見た時、弊社社長が「今回はカラーで行こうよ」と提案した。大胆な配色のサイケデリックなドレスが印象的で、社長の提案は的を射ていた。斯くして、「コモレバ」誌で唯一のカラー表紙が誕生した。大原さんの弟さんも「左手を挙げているのがいかにも麗子らしい写真です」と喜んでいただけたようである。女優・大原麗子論を執筆してくださったのは、演出家として多くの作品で大原さんと組んだ鴨下信一さん。鴨下さんも表紙の写真を見て「豪奢で麗子さんのスター性をよく表現している」と言っている。数々の現場を通して鴨下さんは、大原麗子がかかえる「自分の存在への不満と不安」というものを見抜いていた。「自分はこれでいいのか」が嵩じての「自分は女優をやっていていいのだろうか」という大原の悲痛な声を耳にしている。そして鴨下さんがいまつくづく思うのは、あんなに「女優らしい女性」は他にいなかったのに、ということだ。60代、70代の女優・大原麗子を見たかった、と多くの人々がその死を惜しんでいる。
芸能史に名を刻む
花も実もある
見事な大女優
淡島千景という女優の名を知ったのはNHK大河ドラマ第一作の「花の生涯」だった。ヒロインである村山たかの役だった。井伊直弼は先代の尾上松緑、長野主膳は佐田啓二だった。私は小学校3年だったが、このドラマのさまざまなシーンが記憶に残っているので、一見、子どもには難しいと思われるようなドラマでも、子どもなりの感性で意外と受け入れているものである。淡島さんは1924年生まれで、京マチ子、高峰秀子、越路吹雪、乙羽信子もこの年の生まれだから、女優豊作の年だったようだ。淡島千景も私のお気に入りの女優の一人となり、その後の出演映画なども見続け、「淡島千景には色気がある」などと、冷汗ものの生意気な口をたたいていた。
淡島千景論を語っていただいたのは、漫画家の黒鉄ヒロシさん。黒鉄さんは映画『夫婦善哉』での蝶子の役と淡島千景その人を重ねて、女優・淡島千景の凄みと軽みを合わせ持つその資質に、メディアも世間も迂闊にも気づかず、その死後、改めて作品歴を見直して初めて舌を捲いた、と小気味良い紹介をしている。確かに、映画や舞台でヒロインも務めながら、同時に豊田四郎、小津安二郎、木下惠介、今井正、成瀬巳喜男、市川崑、さらには蜷川幸雄といった名監督、名演出家たちの要望にも応え、長谷川一夫、森繫久彌、尾上松緑といった主演俳優を引き立てる最高の相手役という役割も見事に果たしている。「朦朧体の画のように、輪郭は見せず、霞む景色の中にようやっと淡い島かげのようなフォルムを、見える眼には見せて」という黒鉄さんの表現は、女優・淡島千景を見事に言い当てているのではないだろうか。