昭和という時代が幕を閉じて21年が経つ。蚊帳、紳士の帽子とステッキ、縁側、御用聞き、焚き火、百貨店の大食堂での「晴れの日」の食事など、昭和の風物詩、生活習慣、町の景色や匂いが消え去りつつある。高度成長期、昭和という時代が変化を見せ始めると同時に町の佇まいをはじめとする昭和の風景も、変貌をとげた。今、懐かしい昭和をしのぶよすがは、古い映画の中にしかない。そこには、昭和の町、昭和の風景がまだ生きている。
昭和は遠くなりにけり。
昭和の風景 昭和の町 2009年9月25日号より
郊外住宅地
昭和の小市民のささやかなユートピア
文=川本三郎
一家揃って遊園地へお出かけ
成瀬巳喜男監督のホームドラマの名作『おかあさん』(昭和27年)に向ヶ丘遊園が出てくる。大田区の蒲田あたりで暮すクリーニング店の物語。
父親が亡くなった一家の暮しは楽ではない。母親(田中絹代)は二人いる女の子のうち下の子を親戚の家に養子に出すことにする。
その前に一家で向ヶ丘遊園地に遊びに行く。最後の一家揃ってのお出かけである。
子供電車に乗り、ウォータ―シュートに乗る。子供たちは大喜び。それを見て母親も笑顔を見せる。家族の楽しい休日になった。
向ヶ丘遊園地の開園は昭和二年(1927)と早い。昭和二年といえば、小田急が開通した年。鉄道の開通と共に遊園地を作っている。無論、乗客を増やすための工夫だが、同時に、まだ自然が豊かな郊外で、小市民の親子連れが、一日楽しめる施設を造りたいという思いがあったのだろう。
「郊外」は希望の言葉だった
昭和のはじめは東京の郊外─、現在の杉並区や世田谷区が郊外住宅地として開けていった時代である。
大正十二年(1923)の関東大震災によって東京の市中が大きな打撃を受けたため、東京は西へ、西へと人口が移動して、それまでは武蔵野の雑木林や畑があったところに住宅地が造られていった。
最近は「郊外」という言葉はあまり使われなくなったが、昭和のはじめには「郊外」は新しい住宅地として希望の言葉だった。
個人的なことになるが、私は昭和十九年(1944)に小田急線の参宮橋駅に近い郊外住宅地(代々木山谷)に生まれた。
両親が代々木に新居を構えたのは小田急線が開通した二年後の昭和四年(1929)。五人の子供が生まれ、私は五番目。父親は役人。昭和の小市民といえよう。
参宮橋は新宿の西口に近いが、西口には昭和三十年代まで浄水場があり(いまの新宿副都心のあるところ)、東京ガスのガスタンクがあった(現在、新宿パークタワーのあるところ)。浄水場やガスタンクがあったということは西口が郊外だったことの名残り。
新宿の東口は当時すでに、にぎやかになっていたが、西口はまだ郊外だった。私の両親はそこに新居を構えた。いまふうにいえばマイホーム。子供が五人もいる家庭は現在では極めて珍しいが、当時は、さして珍しくなかった。市中よりも緑が多く、空気がきれいな郊外は小市民が子供を育てるには環境がよかった。
このことは昭和三十年代になっても変わらない。
東京オリンピックの直前、昭和三十八年(1963)に公開された山田洋次監督、倍賞千恵子主演の『下町の太陽』では町工場が多く空気が汚れている東京の下町と、緑豊かな郊外住宅地が対比されている。
ちなみに現代では忘れかけているが、東京は昭和四十年代までは、京浜工業地帯や京葉工業地帯に代表されるように工業都市だった。
だからそれとの対比で、空気のきれいな郊外住宅地が求められた。
新宿は西へ開けてゆく東京の玄関口
東京は西へ西へと発展している。それを象徴するように平成三年(1991)に東京都庁は有楽町から西の新宿に移転した(前述したように浄水場があった跡地)。
江戸時代の宿場町、新宿が発展してゆくのは昭和のはじめ。
東京が西へ開けてゆく時代に、新宿がその玄関口になった。震災後の新しい盛り場として急速に発展した。
昭和四年(1929)に大流行した「東京行進曲」は四番で「シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で 逃げましょか 変わる新宿 あの武蔵野の 月もデパートの 屋根に出る」(西條八十作詞)と歌った。
流行歌に新宿が登場するのは、この頃からだろう。それだけ新宿は浅草や銀座と並ぶにぎやかな盛り場になっていった。
「東京行進曲」については『小田急五十年史』(小田急電鉄、昭和五十五年)に面白いことが書かれている。
「いっそ小田急で 逃げましょか」とは恋人たちが小田急に乗って箱根あたりに行くことをいっている。だから「わが社の電車を駆落ち電車みたいに書くとはけしからん」と怒った重役もいたが、結果的にはこれが開業早々の小田急の大宣伝になった。そのため、小田急は、西條八十に終身優待乗車証を送ったという。ちなみに西條八十は成城学園前駅の近くの大邸宅に住んだ。